私が「子ども」に執着する理由
私がこんなにも「子ども」のことに執着している理由を書いておこう。
「教える」を経て思うこと
私には、家庭教師や教員をしていた時代がある。
家庭教師をした中に、自分は家族に愛されていないと感じている中学生がいた。
また、自分には力がないんだと、テストの結果をみて泣いて訴えてくる子どももいた。
教員をしたときには、自分の進路をことごとく「だめだ」と言われ、(理由は、学力的に無理だという理由だった。)無気力になっていく子ども達がいた。
子どもたちは、みな「自分の力」を信じられなくなっているのではないか。
私はよく言うのだが
「テストは結果でしかない。」
「テストは自分がどこがわかっていなくて、どこがわかっているのかを計るための道具。」
「あなたを評価するためのものではない。」
と。
外部から評価されることでわかることもあるのだが、テストに関しては「自分を計るため」でしかないと、私は思っている。
※自分が中学生のときは、どん底にいたから、テストは苦痛でしかなかったけれど笑
目標なども全部、自分で決めることができるようになればいいなと思うのだが…
今の教育への疑問
テストの点数がすべてを決める。
テストの点数が悪ければ授業態度ではかる。
態度が悪くて点数も悪ければ評価は低くなる。
そんな評価が、学校では行われている。
※いや、もちろんそうでない場合もあるが。
しかし、本当にそれは必要なことなのだろうか?
社会へ出れば「正解がないこと」など、たくさんあるのだ。
そして、正解がないところを「どうしたら」解決できるのか。
「どんなことで」うまく回すことができるのか。
そんなことを考えながら、試行錯誤しながら生きていく必要がある。
これは「どうしたらもっと点数が取れるようになるのか?」を考えることも大いに、将来を生きていくことそのものに繋がると、私は思っている。
しかし、ここで問題なのは「周りからの評価を気にする」ことだと私は思っている。
「どうしたらもっと点数が取れるようになるのか?」を考えるというのと、上記の「評価を気にして点数を取れるようにする」というのとでは、全く違うことが、みなさんにはわかるだろうか?
自分から出た目標と、人から与えられた目標の違いが大きくあるのだ。
自分が決めた目標
前者は、自分の中から出た目標である。
利用したのは「テストの点数」という他者が用意したものである。
しかし、自分が目標としているのは「もっと点数が取れるようになること」なのだ。
点数をより多く取れるように、試行錯誤するのは十分に生きていくために必要な「自分で考えた課題をクリアしていく力」に他ならないと思う。
他者に評価の基準がある目標
後者に関しては、「評価のために」という部分が「他者が決定するもの」と考えていい。
他者が評価を決めるのだから、自分で決めることができないわけだ。
要するに、他者が答えを持っていて、他者が答えを決めているというのと、何ら変わりがない。
他者が答えを決める=答え探しの旅
これが終わらないと、私は考える。
良い評価がもらえなければ、子どもたちは自分がだめだと思い込む。
良い評価のために、頑張る。
そんな教育のシステムに、私は疑問を感じているのだ。