私が「子ども」に執着する理由

2019-07-28

私がこんなにも「子ども」のことに執着している理由を書いておこう。

「教える」を経て思うこと

私には、家庭教師や教員をしていた時代がある。

家庭教師をした中に、自分は家族に愛されていないと感じている中学生がいた。

また、自分には力がないんだと、テストの結果をみて泣いて訴えてくる子どももいた。

教員をしたときには、自分の進路をことごとく「だめだ」と言われ、(理由は、学力的に無理だという理由だった。)無気力になっていく子ども達がいた。

子どもたちは、みな「自分の力」を信じられなくなっているのではないか。

私はよく言うのだが

「テストは結果でしかない。」

「テストは自分がどこがわかっていなくて、どこがわかっているのかを計るための道具。」

「あなたを評価するためのものではない。」

と。

外部から評価されることでわかることもあるのだが、テストに関しては「自分を計るため」でしかないと、私は思っている。

※自分が中学生のときは、どん底にいたから、テストは苦痛でしかなかったけれど笑

目標なども全部、自分で決めることができるようになればいいなと思うのだが…

今の教育への疑問

テストの点数がすべてを決める。

テストの点数が悪ければ授業態度ではかる。

態度が悪くて点数も悪ければ評価は低くなる。

そんな評価が、学校では行われている。

※いや、もちろんそうでない場合もあるが。

しかし、本当にそれは必要なことなのだろうか?

社会へ出れば「正解がないこと」など、たくさんあるのだ。

そして、正解がないところを「どうしたら」解決できるのか。

「どんなことで」うまく回すことができるのか。

そんなことを考えながら、試行錯誤しながら生きていく必要がある。

これは「どうしたらもっと点数が取れるようになるのか?」を考えることも大いに、将来を生きていくことそのものに繋がると、私は思っている。

しかし、ここで問題なのは「周りからの評価を気にする」ことだと私は思っている。

「どうしたらもっと点数が取れるようになるのか?」を考えるというのと、上記の「評価を気にして点数を取れるようにする」というのとでは、全く違うことが、みなさんにはわかるだろうか?

自分から出た目標と、人から与えられた目標の違いが大きくあるのだ。

自分が決めた目標

前者は、自分の中から出た目標である。

利用したのは「テストの点数」という他者が用意したものである。

しかし、自分が目標としているのは「もっと点数が取れるようになること」なのだ。

点数をより多く取れるように、試行錯誤するのは十分に生きていくために必要な「自分で考えた課題をクリアしていく力」に他ならないと思う。

他者に評価の基準がある目標

後者に関しては、「評価のために」という部分が「他者が決定するもの」と考えていい。

他者が評価を決めるのだから、自分で決めることができないわけだ。

要するに、他者が答えを持っていて、他者が答えを決めているというのと、何ら変わりがない。

他者が答えを決める=答え探しの旅

これが終わらないと、私は考える。

良い評価がもらえなければ、子どもたちは自分がだめだと思い込む。

良い評価のために、頑張る。

そんな教育のシステムに、私は疑問を感じているのだ。