予防線を張るのやめて今を生きよう。

2023-03-08

旦那と話しているときに
もやもやもやっと。

なんだろう。この気持ち。

まずは紐解いてみよう。

旦那と息子のことを
共有するときに
いつも感じるこの重たい感じ。

何が起こってるの?

普通にしてたらだめになる?

旦那と共有したかったのは
息子の小学校入学のこと。

ひどいわけではないが、
多動傾向があり、特別な支援を
小学校に行ってから考えるか
どうするかを、共有したかった。

今日は私一人で、
息子が来年行くであろう
小学校を見学してきたのだ。

そこで思ったことは、
「このままだと、息子は
辛いだろうな」ということ。

30人以上いるクラスで、
3クラスある学年になるそうだ。

今まで少人数で手厚く
関わってもらってきた息子は、
このままいけば、
どこか抜けたりするのではないかという
心配がちらつく。

※抜けると言うのは、
学習に漏れが出たり、
忘れ物をしょっちゅうして行ったり。

それを支援するための
通級指導があるとのこと。

これは、使ったらいいと
私は思っていた。

それを伝えたときの
旦那の言い方に
もやもやもやっとしたわけで。

「普通にしてたら
だめになるって
言ってるんやな?」

そんなことは
言ってないけど…
ごにょごにょ。

で、ここに書いてて
思ったこと。

落ちこぼれると
私は思っている。

教室に着いていけなくなるとか
勉強に着いていけなくなるとか。

そういうのは
落ちこぼれと同じだと。

そうか、それは
落ちこぼれなんだ。

型にはまれない
息子は落ちこぼれ。

私は落ちこぼれ。

落ちこぼれないように予防線を張る

そしてさらに深いところへ
たどり着く。

母がよく、言っていた。

「落ちこぼれですみません。」

「もう、この子、
できなくてすみません。」

そんな言葉を聞いてきた。

※何度もいうが
母が言っていたかは
定かではないし、
事実ではないだろう。
しかし、私はそう
聞こえていることに
フォーカスしている。

よく先生へ言っていた気がする。

時は中学校の頃。

私は主要3教科はオール2という、
情けでもかけてもらったかのような
成績だった。

とにかく、何を言っているのか
さっぱりわからなかったよ。

もうね、そのころの写真見ると
目が死んでるのよね。

で、三者面談で
「すみません、できが悪くて」
なんて母から言われていた。

私はそれを聞いて、
無反応、無関心。

いや、何かを感じていたのだろうけれど
今思い出すのは、
その時のくら〜〜〜〜い
感じだけだ。

私は出来の悪い
落ちこぼれだったのだ。

ここまで書いていて
思い出したのだが
いつも母に
「そんなことしてたら
何にもなれないよ。」
と釘を刺されていた。

そう、いつも
「○○にならないように」と
予防線を張っていたのだ。

あ〜反射的に、
私もそれを良かれと思って
やっているな。

落ちこぼれちゃいけない。
私のせいで落ちこぼれさせちゃいけない。

できるだけひどいことに
ならないように。

そうやって、予防線を張って
子育てをずっとしてきた気がする。

今までの
「自由に」生きられるように。とか
「選べる」ようにとかも
心持ちが全て
「ひどいことにならないように」という
考えのもとやっていることだ。

彼にとって
いい環境を整えてあげたい。

その言葉を私はよく言う。

でもそれは全部
「悪いことにならないように」と
予防線を張った心持ちでやっている
環境整備なのだと気づいた。

そこでさらなる大きな衝撃が!!

私はだめな母親に見られたくない

ここで出てきたこと。

それは予防線を張ることで
何をしているのかと言うこと。

すると出てくる。

「だめな母親だと思われたくない。」

「この子のために一番良い部分を
考えて関わっている。」

そう、アピールしたかったんだ。

あ〜〜〜〜〜〜〜

なんか、嫌な感じがする〜〜〜〜

ざわざわする〜〜〜〜

受け入れられない〜〜〜

でも、そうなんだよ。

この受け入れたくない感じ。

これは「そうだよ。」と
直感が言っている。

認めたくない。
受け入れたくない。

でも、私の中の真実。

「良い母親だと言われたいがために
やっていること。」

あ〜〜〜〜そっか。

今まで息子のためだって
言ってたことは全部
「良い母親だね」って
言われたいがために
やっていたことだった。

何度も言おう。

「良い母親だね」って
言われたかった。

そうだ。

良い母親だねって
自分のために言って
もらいたかったんだ。

私は私でいたい

そこまでわかった上で
どうしたいのか?だけれど。

私は私、息子や旦那や娘は別の人。

だとしたら、
私は私のことを
決めることができるだけ。

他の人のことは
決められない。

だとしたら
どうしたいのか?

私は私のままで
いたいのだ。

怒ったり
泣いたり
笑ったり
喜んだり。

感情の赴くままに。
動くのが好きなのだ。

だから、今から色々考えて動くのは
性に合わない。

素直に、丁寧に。

心と心でお付き合いすること。

それが私の生き方だ。

その中で、子育てにフォーカスすると
子どもと一緒に今を見ていること。

怒る時は大抵、未来を見ていることが
多いけれど。
それも含めて
今を見ること。

一緒に今を楽しむこと。

それが私がしたいこと。

今を大事にしよう。

で、最初の支援の話になるが・・・

私の中で支援がどうのとか、
何か手立てを〜とか
そう言うの、私は合わない。

学校がそう言うこと
してくれるのは良いし、
私が自分でこれやろうって思って
やることは良いけれど
人が言ったからとか
こうやったら良いんじゃないって
言われたからとか。

そう言うのは
私には合わない。

私は私で選ぶ。

・・・

だから、小学校のこと
色々考えたけど、
そのままのところで
いいじゃないかと。

そして、息子が不都合を
訴えてきたり
生きづらさを訴えてきたりしたら
その時に考えれば良いんじゃないかと。

まずは学校に入ってみないと
わからない部分も多いから。

小学校に入るまでは
自分で自分のことを
最低限できるように
促すだけだなと。

いや、最低限はできているから
もう、あとは遊ぶこと。

一緒に遊ぶこと。

私も剣を作ったり
お面を作ったり
防具を作ったり。

楽しそうだ。

よし、それで行こう。

まさしく
「今」にフォーカスをすること。

私にはそれしかできない。

いや、私がやることは
そこだ。

そうだ。

「今」にいる。

大事にしょう。