感覚のままに生きていい。
なぜか、涙が止まらない今夜。
私はやっと、私自身を大切にできるようになったのかもしれない。
周りを「見る」からうまくいかない
今朝は、毎月恒例のNLPの勉強会に参加した。
そこで、私自身の内部で何が起こってるのかを紐解いてみた。
そしたら出てきた、悪循環のループ。
例えば息子にイライラするときはだいたい、むすこの表情を見ることがきっかけで起こることが判明。
表情を見たあと、自分の中で考えてしまう。
「うわ!嫌そうな顔してる!」
ここで出た「嫌そう」っていう思い込みがイライラさせてる。
そんで、そのまま何もかも「嫌そう」に見えて、イライラしたまま物事をやり続けなければならないっていう、「いや~な状態」が続いていく。
この悪循環のきっかけは「見る」ことから「自分の思い込み」につなげていることが大きな原因やってことに、気づいたことがとてもとても大きかった。
それを理解したことで、今日の昼間から今の夜中までは、息子たちに怒ってない。
別に、何か特別なことをしようとしているわけではなくて。
ただ、周りを見ないようにしただけ。
感覚のままにいるようにしただけ。
あ~幸せやなぁ。
あ~あったかいなぁ。
あ~おいしいなぁ。
あ~おいしそうやなぁ。
あ~食べたいなぁ。
あ~きれいやなぁ。
こういうのを、ひとつひとつ言葉にして、実践してみただけ。
私がおもうがままに、行動しただけ。
色んなことぐしゃぐしゃ考えるんでなくて、ただ、やりたいように行動しただけ。
そしたら、なんだかとても穏やかで。
あぁ、なんか、感覚のままにいるって、なんて楽なんやろうって、思えたことが大きい。
感覚のままにいるって楽
そして、おかしな気を遣うこともしていない。
いつもだと、大人数だと誰かに話さなきゃとか、遠慮しなくちゃとか、色んなこと考えていて、気を配っちゃうのが私。
※気配りできているかできてないとか、そういうことではなく、私が「気を配っている」と感じていることがここでは重要。
だから、気疲れするから人の中にいたくなかった。
でも、今日はとても楽にいられた。
飲み会に誘われたので、旦那にこどもたちを任せてつかの間の独り身お出かけ。
いつもだと気を遣う場面があるけれど、今日は何も考えず、ただそこにいた。
話したいときに話し、笑いたいときに笑い、聞きたいときに聞き、飲みたいときに飲み、食べたいときに食べた。
本当に気にせず、いたいようにいられた。
それは私にとって、とても大きなことなのだ。
ありたいようにあれていることが、とても心地がよく、心が「おかえり」と言っているのがわかる。
私が私に「おかえり」と言っている。
周りを見ない。
ただこれだけで、なんと平穏が保たれることか。
私は私のために生きていい。
そして、そんな穏やかな感覚のまま、Facebookを見ていたら、こんな言葉が。
「私は私のために生きる。」
これは、ゲシュタルトの祈りというものの、冒頭部分。
うまく言葉にならないのだけれど、とにかく、「私は私のために生きていい。」という表現がすごくすごくしっくりきたのだ。
それは、過去の私に「ありがとう」と言って、さようならをするような。
母に「そんなんじゃだめよ。もっとこうしなくちゃ」って言われて、いやいや母の思うとおりにやってきたことを思い出す。
そんな私に「今までありがとう。」と言って、「私は私のためにいきるよ。」と宣言しているような。
そんな、とても強い、あたたかいなにかを感じている。
私は私のために生きていい。
そう思う、自分の感覚に「自信」を感じられた今日だった。