サクセスストーリーを望んでいる私
最近今日の1日の自分のタロットを引いている。
朝できるときもあれば、夜ひくこともある。
が、とにかく毎日引いてアップすることを心がけている。
で、今日のがこれ。
インスタやフェイスブックでは、こう解釈をした。
しかし。
あとから気づいたこと。
まず、戦う相手とは、私自身のこと。
そして、善意とは、自分の中にある善意の像との戦いだったことに気づく。
善意の具体的な部分は、私が私に課している「母親とはこうであれ」みたいな部分。
それから、私とはこうであれ。みたいな、自分像もそう。
私はこうやって、真面目なことを書き始めると、真面目な口調になる。
そして、おちゃらけた場所ではおちゃらけた人になる。
場面々々でかなり、人格が変わるんじゃないか?と思える私。
だから、息子にたいしての私と、他の子どもに対しての私が違いすぎて怖いくらい。
私は私なはずなんだけど、相手に合わせて変わっていく。
そんな自分が見受けられるんだ。
「人と仲良く過ごしなさい」
「人と一緒に生きなさい」
そんなことを言われて育ったからか?
はたまた、三人兄弟の真ん中として育ったからか?
七変化、八方美人なのだ。
と、だいぶ脱線したが、八方美人だから、私というものがわからない。
私自身とは、何者か。
本当の私とは、何者か。
そんなことをずっと考えて苦悩している。
本当は何がしたいのか?
本当は何をするために生まれてきたのか?
そこを見つけるための苦悩の日々だ。
そして、今日はジャンピングカード(引いてるときに飛び出してくる、落ちたりするカード)が出た。
それがこの二枚。
そんな言葉が浮かぶ。
だがしかし!息子や娘には怒ってばかり。
息子には手まであげてしまった。
苦悩だぁ。
いや、苦悩していることでなにかを得ているのはわかっている。
苦しい自分が「こんなに苦しかったのに今は抜けました!」的なドラマティックな展開を望んでいるのだろう。
奇跡と呼ばれる状況を起こしたいのではないだろうか。
そんなものは、本当はどうでもいいというのに。
なぜなら、目の前に幸せなこと、ドラマティックなことなんて転がっているのだから。
奇跡は地味に起きるものだと、言い換えればいいのだろうか。
サクセスストーリーを願っていると自覚し、そんなものは存在しないんだと、言い聞かせればいいのだろうか。
まだまだ苦悩していたいというのが、私の答えだろう。
自分の目的のために、他者を利用しようとしているのだから。
私の場合、子どもたちを利用しようとしているんだと気づく。
そこに「利用してはいけない」と制限をかけるのもまた、私の中でぬぐいきれない価値観からくるものなんだと思う。
利用したいと思ってるんだと。
いや、利用してもいいんだと思ってるということか。
まとめ
私は私
戦うのはいつも自分自身
自分の心を扱うことの大切さ
私が本当にしたいことは今、探している最中である