価値との戦い

2023-03-08

私はお金を稼ぐことに抵抗がある。

その根底にあるものは
一般的にこう言われている。

「私なんて」とか
「そんなそんな」とか
謙遜?の気持ちや
自分を低く見せるというのだ。

それなりの金額を得る価値があるのか?

私に価値があるのか。

私にはそれだけのお金を
かけてもらえる価値があるのか。

いや、そんなはずはない。

こんな私に価値があるわけがない。

いやでも、お金は欲しいでしょう?
だから高額でもいいじゃないの。

いやいや、やっぱりそんな価値はないよ。

・・・・

って、押し問答になるのだそうだ。

私もその傾向は大いにある。

案の定、こちらのサービス
リリースするときにも
その癖が出た。

「価格をどうしようか?」と。

実は、今までは
2時間10000円(税別)で
カウンセリング、コーチングは
やってきていた。

その価格より下げたら
私の価値が下がったって
ことじゃないの??
とか
その価格で買ってくれた
お客さんに失礼やん!
とか。

色々な考えが巡ったのだ。

しかし、最終的に決定する時に
これ、全部
一般的に言われていることに
支配されていないか?と考えを
疑ってみることにしたのだ。

一般的な意見と自分の違いを探る

この問答、本当に自分が
やっているのだろうか?

お客さんへの配慮や
一般的な癖など
確かに私の価値観の中に
あるから出てくるワードだけれど

本当にそれは私が
思っていることなのだろうか??

なぜなら、私は基本、
あげることが大好きな
家庭で育った。

振舞うことが当たり前な
実家で育ったのだ。

父がいつもどこかげ出かけるときには
必ず手土産を持って出かけていた。

何かお祝い事を聞きつければ
すぐに何かを手に持って出かけた。

自宅には多くの野菜が届き
そのお返しにすぐにお米を持っていく。
※うちの実家は米農家

そんな「あげること」を
喜んでするような家庭で育った。

だから、与えることは良いことだと
私は思ってきた。

これは物々交換の昔の
やり方が残っているだけで
交換しているのは
「価値」だ。

お金は後からできてきたのだから
お金に拘らなくてもよくないか?と
思うようになった。

時間も物も価値

今まで、
親しくなった人とは
ざっくばらんに話していても
コーチングやカウンセリングを
するような形になっていた。

だから全然、お金には
繋がらなかったのだけれど
みんな物を持ってきてくれた。

時間を共有すること
物をいただくこと

これら全て、
お金ではない価値を生んでいると
私は思うのだ。

お金ではない価値。

例えばケーキをいただいた時。

それはケーキという一つの物。

でも、それを買うのに
いくらかかっただろう。

それを作るのにどれだけの人が
関わっただろう。

それを運送するのに
どれだけの人が
手をかけたのだろう。

それぞれ大きな「価値」が
かかっている。

当然、その人が
私に会いに来てくれることにも
車を運転し、時間を使って
来てくれるのだ。

何よりも、
来て話をするという
命を使った時間を
費やしてくれる。

大きな価値だと私は思う。

その人の時間を使うこと。

それが大きな価値。

なぜなら、その人は今まで
いろいろな経験をして
いろいろな価値を通して
今を生きているはずだから。

だから、いるだけで素晴らしいなんて
言われているんだけれど。

だから私は話すだけでも
いいと思っている。

そう、お金をとること自体が
私は性に合っていないのだ。

私はお金という目に
見えるものではなく
物や想いなど、
目に見えない繋がりに
重きを置いているのだ。

だから、お金をもらうことより
「あなたのできるで返してね」と
価格設定をしたのだ。

私の価値はお金では決まらない

自分で稼いでから言えよ!って
誰かに言われそうだけど
私は旦那さんが稼いでくれているから
今は稼ぐ必要性がない。

だから、今は、
私の場合はこうだということを
宣言しよう。

※あくまで個人的な意見だ。

私の価値はお金では決まらない。

お〜〜〜〜〜
かっこいいぜ〜〜〜〜自分!!!笑

って、酔いしれてるのは
置いといて笑

そうだ、私は繋がりを
多くの繋がりを
生み出しているのだ。

社会と繋がるための
セッション。

って思ったら、
俄然やる気が出てきた笑

早くやりたいな〜

まとめ

私の価値はお金で決まるもんじゃない。

お金は欲しい。
でも、私が求めているのは
そこじゃなくて
繋がりなんだ。

繋がるために
セッションしてるんだと
しっかり認識できた。

これで、どんどん私の
やってることに
生合成が取れてきたぞ。

私の価値は
繋がりを持つことにある。

というわけで
申込待ってます。