ばかにすんな!
息子や娘とのやりとりで、
出てきた古い感情の記憶の話し。
今日、息子と娘が
わたしの真似をしていた。
三重県出身の私は、
ナチュラル?な関西弁なのだ。
あまり意識していないが、
最近は少しその関西弁の
イントネーションが
強くなったように思う。
そして
そのイントネーションを
息子たちは真似をするのだ。
それを遊びの中で使うなら
私はなんとも言わない。
でも、昨日は怒られている時に
「そやな〜わかったわ〜」とかって
言うもんだから、雷!!
いやあ、ブチギレて
「口縫い付けてしまおうか?!」
と言ってしまった。
すると!!
なんと、娘が
「ええで〜」と。
もうね、ブッちん!!と
切れてしまい、
再度大きな雷。
そのまま眠るまで口を
きかなかった。
そして、布団で目を閉じた。
少し心が落ち着いたら、
何に怒っているのか?と
自分に問いかけてみた。
過去の虐められた体験が出てきた
問いかけをしてみると、
こんな答えが返ってきた。
「真似されたこと」
そうか真似されたことが
嫌だったのか。
でも、いつも真似されても
おこらないぞ?
なぜ今回だけ
そう思ったのか?
もう少し問いかけてみよう。
真似されてどう感じたから
嫌だったのか?と。
すると・・・
「馬鹿にするな!」
とてもとても大きな
爆発したような声で
この言葉が返ってきた。
何か、かなり怒っている。
その瞬間、過去の
虐められていた時の
映像が思い浮かんできた。
ひとりぼっちの幼少期
私の生まれた年度は
ベビーブームだったのか
小学校の同学年の子どもが
多かった。
同じ集落内の子どもは
集団登校をしたり
子ども会を開いたりと
一緒に行動をしなければ
ならない時があった。
私の集落は全員で10人以上の
同学年がいた。
小さな集落なので、
学校が終わると公園に
みんなで集まって遊ぶ。
その習慣があった。
その習慣に
私は入れてもらえていたが
その中で虐めに合っていたのだ。
今のいじめのように
陰湿ではない。
でも、当時の私は
必死について行きたくて
なんとかしがみつきたくて
ついて回っていたのだ。
忘れもしない、公園での出来事。
その当時は缶蹴りが流行っていた。
私はそこでは必ず鬼になる。
そして、ずっと鬼をさせられるのだ。
ずっとずっと。
私の能力が低いのではない。
※確かに運動神経悪かったけど
それとは違う要因があったのだ。
集落内に双子がいて
一卵性だったから
見分けがつかなかったのだ。
そして、いつも
「○○君!」と
名前を呼ぶと
「俺□のほうやもん!」と
言いながら
双子の片割れが
缶を蹴る・・・みたいな。
他の子どもたちは
それを見ながら
ニヤニヤしている・・・
みたいな。
何度も何度も
鬼をさせられた。
※実際は違うのかもしれないが
このような記憶だけが残っている。
当時の気持ちが蘇った
実は、さっきの
情景が思い浮かぶと
いつも
「寂しい」とか
「なんで遊んでくれないの?」とか
「なんで仲間はずれにするの?」とか
そんな悲しい気持ちばかり
出てきていた。
でも、今回は、その下にある
なんというか、
そんなことに付き合う
必要なんかない!!という
とてもとても強い気持ちが
湧いてきたのだ。
とてもとても大きな気持ち。
それまで押し隠してきた
気持ち。
「馬鹿にすんな!!!」
そんな気持ち。
狭い世界の友達だった
その当時は
母は仕事しているし
弟を連れていかなければならないので
あまり遠くへ行けないしで
世界が狭かったのだ。
友達は
小学校で出会う人だけ。
なんなら、地区の子どもたちに
嫌われようものなら
孤立し、何もしたくなくなってしまう。
そんな狭い世界だった。
遊びも一人で遊べばいいのだが
一人は寂しかったのだ。
だから友達といることを選んだ。
でも、今なら言える。
そんなとこにいなくてもいいよ。
一緒にいなくても
一人で遊べばいいよ。
そう言えるのだ。
私はすごいんだ!
先ほどの「馬鹿にすんな!」という
強い怒りのような感情は
裏返しにこういう意味があった。
「私はすごいんだよ!!」
そうだ。
真似されたり
変なあだ名で呼ばれたりするのは
とても嫌だった。
当時はその嫌という
感情だけだったかと思いきや
違った。
それ以外にも
「私はすごいんだから!」
「馬鹿にすんな!!」
という憤りのような
感情もあったのだ。
虐められてるだけじゃなかった。
私の中に、そんな強い気持ちがあった。
私はすごいんだぞ!!と
強い気持ちがあったんだと
誇らしい気持ちになった。
過去の感情の弔い
この気持ちに気づいてから
息子にこのことを伝えてみた。
私「あのね、さっきね
怒られてるときに
母さんの真似をしたでしょ?」
私「母さんね
真似されると
ばかにされてるような
気持ちになって嫌なの。」
息子「え?ばかになんて
してないよ!」
私「いや、
あなたはそのつもりがなくても
私はそう感じてしまうんだから
仕方ないでしょ。」
私「いじめって、そういうものよ。」
私「自分はふざけて
遊んでるつもりでも
相手はそれで
傷ついてるかもしれないでしょ?」
私「だから
あなたがどうこうよりも
相手がどう感じてるかってのを
聞かなくちゃ。」
息子「そうだね。
お母さん、さっきは
ばかにしたつもりはないんだけど
真似しちゃってごめんね。」
と、息子は謝ってくれた。
なんだか、ずっと
こだわっていたことが
終わった気がする。
謝って欲しかった
息子とのやりとりで
私の悲しかったり
憤りを感じた体験が
終わりを告げた。
私の中で終わった。
そう、私は彼らに
謝って欲しかったのだ。
私を馬鹿にしたことを。
※何度もいうが、相手に
その気持ちはないかもしれないが
私がそう捉えているうちは
滞りがあるということだ。
馬鹿にされた。
それがとても嫌だったのだ。
今日は、その経験が
一つ終わった。
こだわっていた事が
一つ終わると
なんだか軽くなる。
心が軽くなる・・・というか。
私の中に溶けて
一部になるというか。
どんな私も私の一部
私の中で
憤りを感じることや
怒りを表すことは
よくないことだと
ずっと思ってきた。
特に
他人にそれをぶつけては
いけないと思っていた。
だからこそ、
この感情に蓋をしてきた。
蓋をするために
「私なんてダメなんだ」と
思うようにしたんだと
後からわかったけれど。
だから、口癖が
少し変わってきた。
私はすごい。
私はできる。
私は感覚で決めていい。
そんな、自信を
自分で感じられるように
なってきている。
私は私。
憤りを感じても
悲しみを感じても
寂しくても
それでいい。
その感情を大事にしよう。
そう思える。
まとめ
自分自身を大切にすることの
一つが思ったことを
無かったことにしない。
というのがある。
まさしくそれを、
今やっている最中なのだ。
思ったことは思ったこと。
それと現実を
分ける訓練を
今、しているのだ。
私と外界を分ける
トレーニング中である。